張飛翼徳とは
張飛は、蜀の将軍で政治家でもある。字は益徳。幽州涿郡(現在の河北省涿州市)の人。後漢末の群雄の1人である劉備の挙兵に当初から付き従った人物で、その人並み外れた勇猛さは中原に轟いた。その武勇は後世にも称えられ、多くの脚色を加えて取り上げられており、現在でも中国や日本を中心にその人柄を大いに親しまれている。
劉備が黄巾の乱に臨んで義勇兵を集めようとした時(188年)、関羽と共にその徒党に加わり、身辺警護を務めることと成った。以後は関羽と共に劉備から兄弟のような親愛の情を受けることとなり、大勢の前では劉備を主君として立て、命がけで護衛の任務を務めたという。また、関羽の方が数年年長であったため、関羽を兄のように敬愛して仕えた。
194年、劉備は身を寄せていた徐州で、徐州牧の陶謙に位を譲られて徐州牧となった。その後劉備が徐州に侵攻した袁術と戦っている最中、張飛は本拠地である下邳の留守を任されていたが、そこで下邳の相曹豹と対立した。劉備に身を寄せていた呂布が、劉備と袁術が1カ月睨みあっている隙に下邳を攻撃すると、曹豹が寝返り呂布に呼応したため、張飛は敗北し、劉備の妻子を捕虜にされてしまった。劉備と呂布は一旦は和睦したが再び仲違いし、劉備は曹操の元に身を寄せた。張飛は曹操の呂布討伐に劉備と共に従軍し、その戦いでの功績を認められ、許に戻ったときに曹操から中郎将に任命された。
建安13年(208年)、荊州牧の劉表が死去し、曹操が荊州へ進軍すると劉備は江南へと逃げた。曹操は昼夜をかけてこれを追い、当陽県の長坂まで到着した。劉備は曹操がやってきたと聞くと妻子を棄てて逃走し、張飛は20騎ほどを従えて殿軍を引き受けた。張飛は川に拠って橋を落とし、目を怒らせ矛を横たえて「燕人(えんひと)張飛、これにあり! 俺と勝負したい奴はいるか!」と曹操軍に向け大喝一声したところ、誰もあえて近づこうとしなかった。これによってついに劉備は落ち延びることができた(長坂の戦い)。
また江州では巴郡太守の厳顔を生け捕りにした。このとき、張飛は自身が大軍でやってきたのに、厳顔が少数で抗い、降伏しなかったことに腹を立て、厳顔を詰問した。厳顔は「お前達は無礼にも、我が州(益州)に武力をもって侵略した。我が州には断頭将軍(首をはねられる将軍)はいても、降伏する将軍はおらぬ」と張飛を面罵した。腹を立てた張飛は、部下に彼の首を切らせようとしたが、厳顔がそこでさらに「匹夫め、さっさと斬れ。怒るだけ無駄だ」といったので、張飛は厳顔を見事だと思い彼を釈放し、以後は賓客として扱った。
さらに張飛は劉備の漢中攻略戦に従軍し、下弁方面での作戦に馬超・呉蘭らと共に参加したが、曹洪・曹休らに阻まれ、目立った戦果を挙げることなく撤退した。
221年、劉備が即位し蜀(蜀漢)を建国すると、張飛は車騎将軍兼司隷校尉に任命され、西郷侯に昇進した。同年、劉備が呉に対して侵攻することになると、張飛は1万の兵士を率いて閬中を出発し、江州で劉備と合流することになった。その準備をしている最中、恨みを抱いていた部下の張達・范彊に殺された。劉備はかねてより張飛が死刑を頻繁に行い、鞭打ちした部下を自分の近侍として仕えさせていることを戒めていたといい、この時張飛の都督から上奏文が届けられたと聞くと、その内容を聞く前に「ああ、(張)飛が死んだ」と悟ったという。
※Wikipediaより
私が思う張飛翼徳
劉備や関羽のもとで、とても忠誠心の厚い張飛は、勇猛果敢だが猪突猛進するところがありました。残念ながら身分の低い者には暴虐であったといいます。
張飛は一騎打ちに強く、紀霊や許褚にも勝っています。
本当に勇猛果敢なんですね。
それでは、また!