三国志

「三国志」人物列伝②:忠義を重んじた「関羽雲長」

関羽雲長とは

関羽は、中国後漢末期の蜀将軍でした。字は雲長(うんちょう)。司隷河東郡解県(現在の山西省運城市)の人。文人家系で、子は関平・関興。
蜀の劉備に仕え、人並み外れた武勇や義理を重んじた関羽は、敵の曹操や多くの同世代から称賛された。
蜀の五虎大将軍。死後、後世に神格化され関帝(関聖帝君・関帝聖君)となった。

見事なあごひげをたくわえていたため、諸葛亮からは「髯(ひげ)」殿や「美髯公(びぜんこう)」などとも呼ばれる。

黄巾の乱が起きると、義勇兵の劉備と出会い、張飛とともに劉備の護衛官を務めた。劉備が平原の相になると、関羽は張飛と共に別部司馬に任命された。劉備は関羽・張飛に兄弟のように恩愛をかけ、張飛は関羽が年長者であることから兄のように従ったという。

徐州を得た劉備は、呂布と争い曹操を頼って逃れた。建安3年、曹操が呂布を破ったとき、関羽は張飛とともに戦功を認められ、曹操から中郎将に任命された。
建安4年、劉備は献帝から密命を受け、董承と結び曹操に叛旗を起こし徐州刺史の車冑を殺害し、徐州を占拠した。

建安5年、劉備が曹操の攻撃を受けて敗れ、袁紹の元に逃げると、関羽は一時的に曹操に降り賓客となった。曹操は関羽を偏将軍に任命し、礼遇したそう。曹操と袁紹が戦争となると(官渡の戦い)、関羽は呂布の降将の張遼と共に白馬県を攻撃していた袁紹の将の顔良の攻撃を曹操に命じられた。関羽は顔良の旗印と車蓋を見ると、馬に鞭打って突撃し顔良を刺殺し、その首を持ち帰った。

曹操は関羽の人柄と武勇を高く評価していたが、関羽は劉備を裏切ることは無いことと、曹操への恩返しが済んだら立ち去る心算であることを述べた。そのことを張遼から聞いていた曹操は関羽の義心に感心したという。

顔良を討ち取る功を立てた関羽は、劉備のもとに戻ると曹操は考え、関羽に重い恩賞を与えたが、これらの賜り物に封をして、曹操に手紙を捧げて別れを告げ、袁紹に身を寄せた劉備の元へ去った。

建安13年、劉備が諸葛亮を三顧の礼で迎え、重用するようになると、張飛と共に不満を覚えたが、劉備は自分と諸葛亮との関係は、魚が水を欲するようなものであると述べたという。同年、劉表が病死し曹操が荊州に侵攻すると、樊の地より南下して江陵を目指した劉備の指示で数百隻の船団からなる別働隊の指揮を執った。途中、長坂の当陽で曹操軍の追撃を受けた劉備は敗北し漢津に逃れ、関羽の船団と合流し難を逃れ、共に夏口に向かった(長坂の戦い)。魯粛、諸葛亮を介して孫権が劉備に援軍を出すと、劉備・孫権軍は赤壁で曹操軍を破り、曹操は荊州制圧を諦めて撤退した(赤壁の戦い)。

劉備が益州に入ると、関羽は諸葛亮と共に荊州の守備を任された。後に劉備が益州を攻撃すると諸葛亮は張飛・趙雲らと益州入りし、荊州の留守は関羽が預かることとなった。
関羽の功績は張飛・諸葛亮と同等と評価され、関羽は荊州の軍事総督に任命された。

建安20年、関羽は3万の兵を指揮して益陽に布陣。劉備も自ら大軍の指揮を執って関羽の助勢に駆けつけ、一時は劉・孫同盟の崩壊の危機に至った。
あるとき、孫権から関羽に対し、関羽の娘に、孫権の子との婚姻の申し入れがあった時、関羽はこれを断り、孫権を怒らせた。

建安23年、関羽ら群臣らが劉備を漢中王に推挙した。劉備が漢中王を称するようになると、関羽は前将軍・仮節鉞に任じられた。
そして子の関平・都督の趙累らと共に樊城を守る曹仁を攻撃した。曹仁の援軍として、七軍の指揮を執っていた于禁が駆けつけたが、折からの悪天候により大洪水が起こり、七軍は水没した。関羽は船団を指揮して攻撃をかけ、于禁と彼が指揮を執っていた3万の兵を降伏させ、さらに樊城の北に駐屯していた龐徳を斬った。関羽は樊城を完全に包囲し、別将を派遣して呂常が守る襄陽までも包囲した。

孫権に攻められ、関羽は当陽まで引き返したのち、孫権が江陵に自ら軍を率いてきていることを知り、西の麦城に逃走した。孫権から降伏を勧告する使者が派遣されてくると、関羽は降伏を受けるふりをして逃走した。しかし219年12月、臨沮において関羽は関平らと共に退路を断たれ、捕虜となり斬首された。

関羽の死後、群雄・関羽の首級は、孫権の使者によって曹操の下へ送られ、孫権は諸侯の礼を以て当陽に彼の死体を葬った。一方、曹操は諸侯の礼を以て洛陽に彼の首級を葬った。

※Wikipediaより

私が思う関羽雲長

関羽は義理堅く、忠義に厚い、強く賢い文武両道ですね。
劉備の行くところ、いつも関羽がいる!
曹操が欲しいと思わせるほどの人物です。
また死してなお「関聖大帝」として「武神」や「商売の神」の信仰の対象となりました。

やはり劉備、張飛とともに義兄弟の契りを交わしたのは、本物だったのですね~

それでは、また!