趙雲子龍とは
趙雲は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての将軍。冀州常山郡真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。もともと公孫瓚の部下であったが、青州で袁紹と戦っていた田楷の援軍として公孫瓚が劉備を派遣した際、趙雲も随行して、そのまま劉備の主騎となった。
建安13年(208年)、荊州の当陽県長坂で曹操自ら指揮を執る5000の兵に追いつかれた劉備は、妻子を捨てて逃走した。この時、趙雲が劉禅を身に抱え、更に甘夫人を保護したので、二人は危機を免れることができた(長坂の戦い)。
建安18年(213年)、諸葛亮・張飛・劉封らと共に長江を遡って入蜀し、益州の各郡県を平定した。趙雲は江州(重慶)から別の川に沿って西進し、途上で江陽を攻略した。
『三国志演義』では、五虎大将軍となり、非常に勇猛かつ義に篤く、冷静沈着な武芸の達人として描かれている。「生得身長八尺、濃眉大眼、闊面重頤、威風凜凜」(身長八尺の恵まれた体格、眉が濃く目が大きく、広々とした顔であごが重なっている、威風堂々)と堂々たる偉丈夫として描写されている。
劉備が孫権の妹と縁談のため呉に向かった際に同行して、孫権による暗殺から劉備を守り、諸葛亮から与えられていた策を用い、呉から脱出している。
ほかにも『三国志演義』では、荊州の劉表のもとに身を寄せていた劉備が、宴会の席で劉表配下の蔡瑁に殺されそうになり、檀渓という渓流を渡って辛くも危地を脱したことがありました。劉備の従者でありながら、あいにく別の場所にいた趙雲は、劉備の行方を捜し回るものの出会えません。趙雲は蔡瑁を疑いますが、蔡瑁はしらを切り通します。この時、趙雲は蔡瑁が怪しいことは十分承知していながら、証拠がないため決して軽率なふるまいはせず、大人の対応に終始します。このように趙雲には謹厳で慎重な性格も付与されているわけです。
民間伝説では、趙雲は「白龍」(はくりゅう)という名前の白い駿馬を愛馬にしていたという。『子龍池』という話では、この馬は昼は千里を、夜は五百里を走ることができ、趙雲とは意思疎通ができたといわれるほど愛されたという。子龍池は趙雲の家の裏に在り、白龍とともに趙雲が傷を癒したという。後に子龍池を、民や負傷兵らも傷が癒せるように解放し、大変喜ばれている。
※Wikipediaより
私が思う趙雲子龍
体が大きく、堂々とした体格であった趙雲は、「濃い眉に大きな目、大きな顔に肉づきのよいあご」と描写されていますが、イケメンかどうか?は疑問ですね。人となりは、誠実で慎重、信頼できる人柄。
何といっても、曹操軍に追いつかれた趙雲が劉禅を身に抱え、甘夫人を保護したことが有名で、私は好きですね。
それでは、また。